マラゾーラ、マジック・ボックスリトル・ジーニアス、リトル・マジシャン…。数々の神々しいニックネームからどんなスタイルの選手だったか想像できる。
1966年7月5日生まれで166cm・67kgと小柄な体ながら優れたスピード、キレ、パスを武器に自分より一回り大きなDF相手に全く負けていなかった。
ヌオレーゼというクラブでキャリアをスタートさせ、マラドーナが在籍していたナポリで頭角を現す。マラドーナの影響を受け、テクニカルなプレーをすることからマラゾーラという異名も持っている。
その後パルマに移籍し、アスプリージャなどタレントに恵まれ一時代を築く。しかし、96年にいわゆるファンタジスタを冷遇する現ミランのカルロ・アンチェロッティ監督と確執が生じ、イングランドプレミアシップのチェルシーに移籍した。
当時のチェルシーは多国籍軍でその中でもグーリット監督のセリエA人脈が主流だった。既にクラブにはジャンルカ・ヴィアリ、ロベルト・ディ・マッテオが在籍していてその点で馴染み易かったかもしれない。移籍してすぐ、キックアンドラッシュが主流だったプレミアリーグに新しい風を吹き入れ、見事にそのシーズンに記者選定プレミア最優秀選手賞に輝いた。
しかし、チェルシーでも順風満帆な選手生活を送ることはできなかった。
グーリットから監督を引き継いだヴィアリと確執が生じ、ベンチを温める機会が増えた。
それでも97-98シーズンのカップ・ウィナーズ・カップ決勝で交代出場直後に唯一のゴールとなる決勝点を決め存在感をアピール。
2000年にはヴィアリがクラブのアイドルとなっているゾーラの存在が邪魔で放出することを画策するが、クラブの成績不振もあいまってヴィアリ自身が解任されるという結末となった。
監督がラニエリに変わってからは年齢の影響もあり出場時間は徐々に減って行ったが毎シーズンコンスタントに30試合以上に出場していた。
チェルシーで最後のシーズンとなった02-03シーズンは開幕から昨季のスタメン2トップのハッセルバインクとグジョンセンが怪我などで不調の影響もあり全試合に出場しチェルシーで自己最多となる14ゴールを決めクラブのCL出場権獲得に大きく貢献し、惜しまれつつ故郷のカリアリにキャリアの最終地として移籍した。
カリアリでは10番を背負いクラブのセリエA復帰に貢献、04-05シーズンにクラブの残留に多大なる貢献をし惜しまれつつ現役を引退した。セリエAではミハイロビッチに抜かれるまで直接FKゴール数記録を保持していて、「ゴールを決めるにはPKよりFKのほうが簡単」との名言を残したと言われている。
現在はチェルシーでチームメイトとなったピエルルイジ・カジラギと共にアッズリーニ(U21)のチームでコーチを務めている。
イタリア代表としては35試合に出場し9得点という成績を残した。
同じポジションにロベルト・バッジオという偉大な選手がいたため出場機会は限られてしまった。94年のWカップでは交代後すぐに不可解な判定で退場を宣告されてしまい、以降決勝まで進んだイタリアチームにおいて出場機会はなかった。96年のEUROではエースとして臨んだが、優勝国のドイツとのPK戦でPKを外してしまいグループリーグ敗退の憂き目にあった。98年Wカップの予選ではプレイオフに回るもそこで活躍したが、セリエAでバッジョが復活を遂げ、デル・ピエロの台頭もあり惜しくもメンバーから漏れてしまった。
現在もチェルシーとはチャリティーマッチに出場したりフットサルチームの選手として参加するなど関係を持っている。
いつの日かチェルシーの監督として戻ってくる、そう信じてこれからの活躍に期待している。




